共有して友達に自慢しよう!

共有と演出と承認とそれらから距離を置くことについて。


自分のちょっとした日常を「いい感じ」に演出してSNSに掲載することで、人格だけではなく生活そのものを承認してもらうことができる。
その「いい感じ」はinstagramのフィルターをかけた写真で簡単に演出できるし、承認する側もページ遷移さえ必要ない「いいね」を押すだけでいい。
生活の中のちょっと「いい感じ」に見える部分を抽出して承認してもらえば、それこそ年収150万円で僕らは自由どころか幸せに生きていくことができるかもしれない。


でも僕はどこまで自分の時間をSNSで共有するかということには少し気を遣いたいと思っている。
例えばテレビで放映しているなにかを観るときにはTwitterで実況しながら観るかどうか少し考える。
輪るピングドラム』の後半をタイムラインを見て実況しながら観たのは今考えても失敗だったと思う。あれは一人で静かに観るべきだった。
小説や漫画などは音楽や映像と違って読む速さを自分でコントロールできるものなので、逆にそれが妙なリズムになってしまわないようにゆっくりと時間を取って、通知が来ても見えないようにiPhoneも伏せて置いておくことにしている。
SNSは孤独な時間をなくすことができるけど、孤独な時間は少なくとも僕には必要なものだと思うし孤独な時間を持たない人というのは少しこわい。


昨日は3.11だったのでTwitterにも黙祷をしている人がたくさんいた。
Twitterで黙祷postすることが必ずしも黙祷する自分の演出を意味するとは言わないけれど、そういう風に見られても嫌なので僕は去年も今年も黙祷postはしないでおいた。
様々な投稿が矢継ぎ早に立ち消えるTwitterがあまり黙祷に向いた場所ではないような気がしたということもあるけど。
「本当にその黙祷postは黙祷する自分を演出しているわけではないのか」という疑問がかすかに頭を過ぎってしまうし、他人の祈りに対してそんなことを感じてしまう自分も嫌だ。
SNSはめんどくさい。


◆追記
誤解されそうだから言っておくと、SNSで互いの日常を承認し合うことで満足感を得ることができるのはお金がかかるわけでもないし、人と人の繋がりあってのものでもあるしすごくいいものだと思ってます。
僕自身もそれにかなり助けられているし、あまりSNSを使わない友人が朝から晩までヘトヘトになって働いて精神をすり減らせているのを見ると、SNSを通じておためごかしのものであってもいいから彼女がその生活への満足感を得ることができればきっと楽だろうに、と思ったりもするぐらいです。
時と場合と程度が何事につけても大事ですね、ってぐらいの話です。