声の大きさ #1


ここ最近、声の大きさについて気になるのでなんとなく連番を振ってみた。#2があるかどうかは未定です。



僕だけかもしれないけど、エクスクラメーションやwを駆使してなにかを絶賛している人を見ると、僕だってそれを好きな気持ちは負けないぞ、という対抗意識や、僕よりこの人の方が愛が大きいかも、という気後れを感じてしまったりすることがある。
本来は張り合うものではないはずなのに、なぜかここに愛の大きさの比較が生まれてしまいがちで時どき疲れる。
同じ趣味の人と繋がりやすいSNSではもしかしたらよくあることなのかもしれない。


Twitterにpostするときに僕はなるべくおもしろく感じてもらえるようにと心がけている。なにしろわざわざ自分の発言を見てくれているのだからおもしろいと思ってもらわないと。
「おもしろい」と言うのは少し語弊があるけど、笑えるとか興味深いとかだけではなくて、なんとなくその人に好感や共感を持てる気持ちのいい発言を僕は見たい。
そして自分が見たいと思っている以上、自分を見ている人にもそういう発言を見せたい。
となると、なにかをけなすよりも褒める方がよいに決まっていると思うのだけど、よいものをよいと言うのはなかなかむずかしい。
言葉を尽くして褒めようとしても、「ヤバイ!!!!!!!!!」の1postの方が勢いがあって感動が大きそうに見えることもあるだろう。
これもなんとなく、「声の大きさ」のような気がする。


かと言って、大声でヤバいヤバいとなんでも済ませていてはどんどん薄っぺらくなっていって、いくら言っても誰も興味を持たない狼少年になってしまいそうでもある。
もちろん常日頃の言動やSNSの外での活動で、その「ヤバい」に重みを持たせることもできるけど、普通にTwitterしてる普通の人(あまりに乱暴な言い方だけど)にとってはある程度言葉を尽くしてヤバさや良さを表現するに越したことはないのではないかと思う。


と、言うようなことを最近よく考えている。
「声が大きい」と言っても、ネット上での発言であって実際に声は出ていないのだけど、「声が大きい」という言い回しをネットの文字での発言に対して使うことに少なくとも僕はあまり違和感がなかった。
俵万智さんが「最近の若い子はメールに慣れているので『面と向かって電話する』という言い回しをするのがとてもおもしろい」というエッセイを書いていたけれど、少し似ているかも。