About a girl / 自分語り語り


ある時期まで感じていた生きづらさについてこっそりと自分語りします。


僕は益荒男か手弱女かで言えば手弱女みたいなところがあって、マッチョで益荒男な男性の方が世の中には多いのでそのことがずっと気にかかっていた。
自分の中にある繊細な部分をを自分のアイデンティティーのように感じることもある一方で、とても邪魔なものにも感じていて、それを共有したり理解してもらうことにむずかしさを感じていた。
ひと言で言えば、生きづらかったのだ。


自分の性への複雑な感情から中性性に憧れるのは二次性徴期の青少年にとってはよくあることなのかもしれないけれど、女装や中性性を武器にチヤホヤされているインターネット上の人たちも嫌いだったのでそれはそれで大変だった。
当時、サークルやゼミで僕が書いていた小説には女性の一人称ものが多くて、今にして思うと自分の中の女性性を承認してもらうための昇華手段になっていたのかもしれない。
(当然、ここまで自覚していなかったけれど、結果として創作の姿勢としてはあまり褒められたものではないものだったなと反省している)
それから、自分のそういった部分が女性の目から女性的なものに見えるかというようなことにも興味があった。


そんなわけで、僕はIDとHNをgirlsaidとした。のかもしれない。
girlの訳語である「少女」という言葉はいろんなイメージを持っていて、もはやそのイメージの方が現実の少女よりも大きいものになっている。
(似たような言葉だと「団地妻」なんてのも現実の団地に住む既婚女性とは大きくかけ離れたイメージを持ってるね)
自分の中のもやっとした部分をこの「少女」という言葉のイメージの中に含めてしまえばいいのだ、と
まあ、この由来はほとんど後付けな気もするけど。


いまだに世の中のほとんどの男はデリカシーのないマッチョだと思ってるし、そういう人には話しづらい悩みごとや感覚なんかもまだまだある。
相談相手に女性を選ぶことも多い。(男性に弱みを見せるのが下手なだけかもしれないけど)
でもだからと言ってマッチョを毛嫌いするわけでもなくて、マッチョな人との付き合いづらさもそれほど深刻に感じなくなってきた。
そういえば、昔はこんなところに生きづらさを感じていたっけ、と振り返ってみるぐらいのことになった。
ものを書く人が安易に頼るべき言葉ではないと思うけど、生きづらさ。




少し話は逸れるけど、僕は自分語りが好きだ。
何度もいろんなことを思い出して言葉にする。それは誰かに語ってもいいし、頭の中でひとり言葉にするのでもいい。
(ブログやTwitterというのはこのどちらにも分けられないちょうどいいところにあるので好き)


思い出すこととそれを言葉にすることは生きる上で最重要な行為のひとつだと思っている。
なにかを語った瞬間に、語ったことと語らなかったことが生まれ、お話に教訓や意味が付加される。
(上でやった自分語りも明らかに意味と整合性のある”お話”になっている)
それらすべては作りものであって語れば語るほど真実からは遠ざかっていくけれど、どの道すべての記憶は取り出した瞬間になにかを省かれなにかを足されて嘘になるものなのだからそれでいいのだ。
重要なのは真実を語ることの不可能性を意識して、いかにして語るかを慎重に考えることだと思う。
この感覚がある以上、僕は物語の地平で生きていかざるをえないのかもしれない。


というようなことを、愛読書『本当の戦争の話をしよう』の再読をしていて感じたので、自分語り欲がとても高い。
ブログでの自分語りって比較的ダサいことなので、次はなにか違う形でやりたいな。


『本当の戦争の話をしよう』はこういう物語り語りのようなメタフィクションをひたすら連ねていく小説で、僕のこういう感覚も多分に影響を受けています。

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)