全世界に発信していきません

Twitterのパブリックサーチを使っていきなり議論をふっかけてくる人たちを最近よく見る。
誰に押しつけるつもりもなかった個人的な「つぶやき」のつもりの投稿に対しても、反対意見を投げつけ、不勉強や視野の狭さを論い、あるいはどこか誇らしげにさえ見える様子で彼らは去っていく。
意見を交換するという体で、その実は論破することが目的のように感じる(穿ちすぎかもしれないけど)。


それを見て僕は、インターネットは学会か?シンポジウムなのか?と思わずにはいられない。
以前書いた「学食と教室」の話とは、逆のことを言ってるように見えるかもしれないけど、「学食での話」か「教室での話」かは発言する人の立場やさまざまな文脈に拠るところであるし、少なくともパブリックサーチで引っかけて文脈を見ずに突っかかることではないように思う。


そういう「ヘイヨー!You全世界に発信ナウ!」とばかりにラップバトルをしかけてくるギャングスタが好む話題について、不用意に全世界に発信してしまうやつが馬鹿なのだ、という話なのかもしれないけど、そもそもその「全世界に発信」という言い回しについて前々から僕は違和感がある。


ブログやTwitterに投稿すると確かに全世界からアクセスできる状態にはなる。
でもだからと言って、全世界の人がその投稿に目を通すわけではないし、ほとんどの人はそんな投稿があったことに気づきさえしない。
「全世界に発信」という言い回しは「狭い範囲の人にだけ見られることを想定して、インターネットで不用意な投稿をするのは馬鹿だ」というニュアンスで使われているような気がする。
この言葉が、インターネットに投稿することは本当に全世界に発信していることなのか、常にそのつもりで投稿しすべての発言に自分の全威信をかけるべきなのか、というような問題への思考停止の御旗になっているようにさえ思う。


もちろんすべての突然の議論や意見交換を否定するわけではないけれど、常にそれに応じる必要があるか、ということについてはやや疑問なところ。