物語り


ちょっとした昔話。




小学3年生のころ僕は毎週親に連れられて教会に行っていた。
大人たちが夕方の礼拝をしているあいだ、僕らは外をを駆け回ってケイドロだとかいくらか子どもっぽい遊びをしていた。
幼稚園から付き合いである2人と3姉弟と僕と僕の妹の7人だった。ひょっとするともっと大人数だったかもしれないけれど、とにかくこの7人が定番だった。3姉弟は長女が僕の3つ上、次女が1つ上、末の弟が2つ下で確か僕が7歳か8歳のころにつきあいはじめたはずだ。
8歳の僕にとって、3つ上というのは普段話すこともないような年上のお姉さんだったのだけれど、3姉弟の長女は気を置かずに同い年のように遊べる唯一の年上の友達だった。今にして思うと僕はぼんやりとその子のことが好きだったのかもしれない。

9歳になってすぐ、僕は九州に引っ越した。しばらくしてその女の子から手紙がとどいた。そこには、「君がいなくなってからあまりみんなで遊ばなくなってしまいました。君はみんなをつなぐ糸だったのかもしれないね」と書かれていた。そのとき僕は初めて寂しさから涙を流した。
彼女は中学校にあがってしばらく、きっとあまり馴染めなかったのだと思う。そんな中でポロリと、遠く九州に旅立った友だちに手紙で弱音を吐いたのだろう。

そして今、彼女は昔一緒に遊んでいた僕の幼馴染の兄と結婚している。
大学院生だったお兄さんと中学生だった彼女は兄妹のような関係だったけれど、いつしかそれが恋になったのだと結婚式のときに泣き笑いで語っていた。
僕の知らないところでも同じ速さで時間が流れていたことを知って、僕は歳月の重みを腹の底で感じた。




この話は時間というものを意識して自分の幼年期を振り返ったとき、真っ先に思い浮かぶ話だ。
これはもちろん本当にあったことだけれど、同時に作り話でもある。

初めて寂しさで泣いたのが手紙を読んだときというのはおそらく僕の美化に違いない。
それに僕は中学生時代の彼女がどんなであったかを知らない。どちらもきっと僕の想像の中の話だ。

繰り返し反芻するうちにお話として次第に美しくなっていったこのエピソードは、僕がはじめてなかば意識的に物語化した記憶のひとつだと思う。

記憶は繰り返し語るうちに物語になっていく。
それを肯定して丁寧に行うことを僕はティム・オブライエンで知り、それを拒絶し物語にならないよう繊細に記憶を扱うことを田中小実昌から知った。

たくさんの記憶とお話を抱えることが歳を取ることであるし、歳を取ることが生きることであると思う。
僕はかっこよく歳を取ってかっこよく生きたいので、ありとあらゆる記憶とお話をきちんと丁寧に扱えるようになりたいのだ。わなびい。


本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

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ポロポロ (河出文庫)

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