愚考1 ー ユーモア、ジョーク、ふぁぼ

Twitterで面白いネタを言うことに本気を出してる人たちのことをネタクラスタっていう曖昧な言葉で指すことがある。
彼らのpostはクスリとするものから舌を巻くもの、愚にもつかないものまで、まあいろいろ。
大道芸人のようにネタでふぁぼを稼ぐ。



僕だって冗談やふぁぼ狙いのpostはする。
でもなんかそういうネタクラスタの人とは決定的な違いというか、距離感みたいなものを今まで感じていた。


どんなに自分がジョークばかり言ったとしても、決してネタクラスタにはならないしなれない気がしていた。



それは多分、お笑い芸人とそこらの面白い人のようなものじゃないかと思う。
芸人はカメラや観客の前でキャラを演じる。
僕らは会話の中でちょっとした冗談を言ったとしても、そこに演技はない。


もっと深いレベルで言えば誰だっていつも人格を演じているけど、それは芸人の演技とは本質的に違うものだ。



ネタクラスタのキャラってのは童貞だったりニートだったりキチだったり、まあいろいろだろう。


これは僕の想像だけど、きっとネタクラスタの人は舞台にあがった芸人のように「さあ、こいつは今から笑わせてくれるぞ」という視線を浴びながらツイートしているような気がする。


そこでは私的な生活や人格や交友関係みたいな本来会話のコンテキストになるものはノイズになってしまうんではないか。


もしそうなら、きっと僕の感じていた距離感は思っていた以上に大きいものだったんだろう。




僕らはただ単に会話や場を楽しんだり、愉快なものにするために冗談を言い合う。
だから自分を知らない人にまで幅広くウケることを言う必要はないわけである。




ただそこにふぁぼって概念が入ってくるのはよく考えてみるとなかなか恐ろしい。


誰がどれだけ笑ったとかを気にもしない軽口までもがなんだか採点されてしまっている気になる。
Twitterでは芸人も僕らも同じ舞台装置でコミュニケーションしているのだから。



でもユーモアって本来そういうものだろうか。
ユーモアは笑顔で会話するためのもので、僕らまで芸人のようにジョークの評価を気にしなくていいんじゃないだろうか。



ふとそう考えてみたら、ふぁぼりふぁぼられってのもなかなか危ういシステムなんじゃないかと思った。






まあ、気にしすぎってのはわかってるんだけどね。
10分に1回Favstarを癖のように見る自分を戒めながら書きました。